3.整合・不整合・否整合

 今から40数年程前まで日本史では、旧石器時代:日本に無し|縄文時代:狩猟採集|弥生時代:稲作・青銅器|古墳時代、鉄器のように習ってきた。私は高等学校で日本の旧石器時代の存在を知り、大学に入ってから縄文時代に既に米作(もち米)が行われていた事を知った。現在高校では、縄文時代/弥生時代/古墳時代のように斜め線で表されていると次男は言う。
 また近年、縄文時代・旧石器時代の始まりとされる時期ももどんどん過去へと遡っているようだ。

 地質学では、地層や事象に連続性がある事を整合。大きく途切れている事を不整合と言う。私の大学では、非整合と言う言葉も使っていた。非整合とは堆積と浸食が同時に進む意味だったと思う。/斜め線なのかも、「一大事」の連続だったのかも知れない。

 私は、地名や状況証拠や直感から、明らかに説明がつくものを整合。腑に落ちないものを不整合。どちらともとれるものを否整合と呼ぶこととして以下を考察してみた。


御射神社 (春宮)ミサジンジャ 松本市浅間温泉



 主祀神:建御名方神 (タケミナカタシン) 諏訪神社の春宮に相当し、主に狩猟の神とされている。

 現在は豊穣の神の意味も含まれている。境内から松本市街中心部がが望める。
 朱塗りの鳥居とケヤキの大木のしめ縄は、アイヌの「イナフ」と呼ばれるしめ飾りとそっくりだ。
 イナフに紙幣(シテ)゙を加えただけのようである。

 古くは大山祇命 (オオヤマツミノミコト;境内の記載では「オオヤマミズ」)が祀神で、
 八坂刀売命 (ヤサカトメノミコト)、事代主命 (コトシロヌシノミコト)が合祀されていると記されている。
 神話では、八坂刀売命は建御名方神の妻。事代主命は息子とされているが、様々な説がある。
 大山祇命は大山津見神とも記される。伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれたとされる。
 神の系図の第二位に位置する重要な存在であると思える。

 オオヤマミズもしくはオオヤマツミを読み替えるとオホヤマミズもしくはオホヤマツミとなる。
 オホはツングース語でシベリアの大地、ヤマはアイヌ語のヤム yamで、冷たいを意味する。
 祇の字は土地を表す。祇園精舎のあれだ。
 すなわち、大山津見命は「シベリア大陸の冷たい水の神」もしくは、
 「シベリアの凍土の神」と解釈出来る合成変換ではないだろうか。
 この神社で祇を「ミズ」と表記してあるのも気になる。
 単なる誤表記なのか何かを伝承しようとしているのか、口伝とか言い伝えとは意外と大切な事なのだ。
 しかも、大山津見神は建御名方神よりも遙かに古い神なのである。
 「大山津見神」が主神だった神社をいつの日か誰かが「建御名方神」に置き換えたと思える。

 この際、今までの「大山津見神」=「大いなる山の神」という解釈は横に置きましょ。
 だが、大山津見神がシベリア大陸の奥、アルタイ山脈から来た先祖と考えれば「大地の山の神」で整合するではなかろうか。
  


 毎年10月3日宵宮の「松明まつり」(浅間の火祭り)で有名だ。
 神社「鳥居場」脇の松明の終着地で松明を処理する消防団員は、まるで溶鉱炉で働く人のようだ。
 翌日4日の本祭はススキの穂をあしらった御輿と、縁起物は「のっこばからまいりりました」と書かれたススキの穂。
 「のっこば」とは狩猟の時、奥の三才山を乗り越す場との説明書きだが、
 「鋸場」ノコバすなわち金属のある場を指した暗号なのではないだかろうかと…
 境内には、ケヤキ、松、竹、ソヨゴ(松本ではナンテンと呼ぶ)が植えられている。本殿裏は笹藪。
 六本柱が目立の特徴ある本殿。赤白赤、白赤白の球飾りが、繭玉飾りのようにも見える。
 一際飛び出た二本の柱は建築学上、母柱(オモバシラ;主柱とも書く)と呼ばれる。
 有名な諏訪大社御柱祭では、茅野市の上社本宮には祭り前に既に二本の柱が立てられているという。
 山出し…木落し…里引き…と呼ばれるクライマックスに、後から四本の柱が立てられるのだそうだ。
 これは、いったい何を意味するのだろうか。
 私は、既にある最初の二本は移動生活が多かった時代のテント式の住居の名残で、鳥居とも一致するように思う。
 その最初の二本こそが母柱(主柱)なのではないかと考える。
 しかし、原始人が二本の柱で家を建てていたという証拠は、穴居生活と呼ばれた旧石器時代以降、
 今から数十年前のキャンプ用テントやボーイスカウトにしか遺っていないのだ。
 いや、立穴がないか浅くて発見されていないだけなのかも知れない。
 現在の神社の鳥居だけが、それを物語っているようにも見えるが想像の域を脱しない。
 縄文時代とよばれている竪穴式住居はすでに六本が基本で、それが母柱(オモバシラ)で、
 御柱祭で建てられる後の四本は、時代の変遷や多種民族の建築構造との融合を表すのではないかと考えた。
 だから、御射神社はその融合の完成形を示していると思う。
 御柱(オンバシラ)は、母柱(オモバシラ)を建てる方が原型だったのではないか。
 実は平安時代まで多くの庶民は竪穴式住居で生活していた。平安時代は「寝殿造り」という教科書の『神話』は、リセットなのだ。
 神社仏閣には、先住民の住居跡や墳墓などが多く、この神社からも様々な想像が出来る。
 フィールドノートの記載のように、神事での参列者の非序列性、御神酒を輪になって和気あいあいと頂く。
 年齢地位肩書きを問わない平等対等性。冬至前に既に松飾りを飾り付けている事。
 境内の木々、飾り、建築の多様性。これから、多民族、多種族の融合の伝承が覗われて仕方ない。
 しかも、現在までも他民族と同化しながら在住して、かつてのしきたりを守り続けている。
 観客のいない山奧の神事を観察することこそが重要なのだ。

 元にかえるが、この神社で重要なのは「元」主祀神の大山津見神が、建御名方神よりも遙かに古い事だ。(次章:神々の系図参照)
 さらに重要なのは、縄文時代の諏訪湖の水位である。
 前節で述べたように5000~6000前に松本の浅間温泉から目の下に湖沼が広がっていたとすれば、当時の諏訪湖の水位はどれ位だったのだろうか。現在の水位約750m。
 日本最古級と言われる「諏訪大社」は、現在三つのお宮すべてが標高約790m。標高こそ浅間温泉よりも100以上高い。しかし、立ちはだかる山に囲まれた諏訪湖。そこに建つ神社仏閣群は、今ですら湖の縁なのだから、氷河の溶けた縄文時代の温暖化最盛期には諏訪湖の水面下、よくてギリギリの岸辺ではあるまいか。
 さらに氷河期まで遡ると、湖面は現在より低いと考えられるが、気候的にはやはり松本の方が住みやすかっただろう。
 とすると、浅間温泉の「御射神社」の方が「諏訪大社」よりも先に出来た神社、または住居遺跡だったと考えてもおかしくはないだろう。
 だが、火山活動や造山運動も考慮に入れないとなんとも言い難い。


 
 「御射神社」祭礼の幟旗には「神に依って人は敬い威れを増し、人に依って神の徳運は沃ぐ」と読むのだろうか。
 神とは自然そのものであり、それを敬い威れることによって、人間は恵みを受けることが出来ると…

 「建御名方神」については、後述する。
 女鳥羽川上流、三才山峠麓にある御射神社「秋宮」、さらに山中にあるという「奥宮」へはこの前期はまだ詣でていない。


大音寺(跡) ダイオンジ 松本市浅間温泉


 
 浅間温泉の裏山、御殿山裾野にある墓地にその名称だけが残る寺。
 元は山の中腹にあり「七堂伽藍」がそろった天台宗の大寺院であったという。
 戦国時代には横谷城という山城もあった。空堀等が残存している。 
 とにかく現在は、「がらんどう」で墓地しか無い「はかない」寺院跡である。

 音の字と寺が、とても気になって分解してみた。音=立+日=日+立。寺は、多羅とも平とも表記上通じる。。
 すなわち「大日立多羅」 オボヒタッタラ、「オボヒタタラ」であったのではないか。
 オボ、オホとは、シベリアのことを言い、大地を意味するツングース語。今私達が普段言う「シベリア」はロシア語である。
 例:オホーツク海。オホはシベリア。ツクは、所 常 床で場所を指す。だから「シベリアの海」となる。
 これを基準に変換すると、大の字は概してオホまたはオボと読み替える事が出来る。
 実際に日本ではかつて狼はオオカミではなくオホカミと表記されていて、大神とも書く。

 「タタラ」とは砂鉄から鉄を取り出す技法。中央アジア出身の山岳民族であるタタール人が世界に広めたという。
 タタール人とはアルタイ人から見て他の民族を指すアルタイ語であるという。
 アルタイ族と隣接して住むが、他々アルとでも言うべきだろうか。
 現在ウクライナ紛争で注目をあびているクリミア半島にはタタール人として、
 また中国の新疆ウイグル自治区にはウイグル族として現在も居住している。
 鉄器を世界で初めて実用化した民族とされ、ギリシャ、ローマ時代にはギリシャ人の奴隷階級ではあるものの、
 傭兵として活躍しているが、その気性の荒さと略奪行為、残虐性から、ある意味「山賊」の汚名も着せられている。
 馬と戦車を操る名作映画「ベンハー」のあのレースシーンががそれらを彷彿とさせる。
 タタール人は漢字表記では韃靼人ダッタンで、ボロディン作曲の「韃靼人の踊り」でも有名だが、ベンハーとは対照的だ。。
 ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」にもスペイン人の残虐さの象徴として断片的に語られている。
 因みに英語ではタルタル人という。タルタルソースとの関係は不明だ。
 
 「たたら製鉄」の詳細については、「日立金属」を参照のこと。動画もある。




猿田彦神社 サルタヒコジンジャ 松本市蟻ヶ崎(城山公園隣、「犬飼山御嶽神社」境内の奥宮)

 ここで述べるのは、城山中腹の猿田彦神社ではない。蟻ヶ崎・城山の山頂「犬飼山」にある「犬飼山御嶽神社」と「十二大権現」および奥の「猿田彦神社奥宮」である。
 とにかく、おびただしい数の石碑と石像に圧倒された。あの美ヶ原山頂に負けず劣らずなのだ。しかし、それほど古いものでははく細かく調べては以内が江戸時代のものが多いようだ。しかも、神様から仏様、権現様やらごちゃごちゃなのだ。むずかしく言えば「両部神道」もしくは「本地垂迹」または「神仏習合」のオンパレードとででも言えるだろう
 本宮の「犬飼山御嶽神社」は、乗鞍岳にほぼ対面する。木曽御嶽山はここからは望めない。修験道の「御嶽教」の管理する拝殿だが、東の美ヶ原を向いているので御嶽山とは逆向きなのだ。社殿は、山頂から移築された模様だ。山頂名は「鳥居山」。一番高い位置にNBS長野放送の電波塔があり、神社のすぐ裏上に二基の他の放送電波塔が占拠している。かつては電波塔の場所に神社や石像群があったにちがいない。
 神社の拝殿が、美ヶ原を向くということは、木曽御嶽さんや乗鞍岳を拝むのではなく美ヶ原火山を拝むことになる。
 神社左脇の「十二大権現」の祠の中には、赤子を抱いた神像。不二、浅間神社と書かれた御幣。先に述べたように不二も浅間もフチとアサマで、固有名詞ではなく火山を表す。だから、今は噴火していない美ヶ原火山をフチ、アサマと拝んでいたとしても何の不思議も無い。
 因みに「十二大権現」とは、仏教でいう十二天のことであり、東西南北など八方と天地、日月の十二を護る神のことだ。この仏教の護法神や仏を日本の神として置き換えたのが権現(権化)の始まりなのだ。
 だから、信仰の順番からいくと、アサマ・フチがずっと前からあって、土俗宗教、修験道や仏教から「御嶽教」になったのは、明治以降なのだ。もちろん体系化された「神道」という宗教も江戸時代の途中からのことである。

 さらに「御嶽社」「十二権現社」の奥に、北方を拝むように建つのが「庚申」と書かれた社。「猿田彦神社」だ。「庚申」は、中国の道教の信仰が、猿田彦の猿を申とかけて後世に後付けされたものだ。ではいったい「猿田彦」とは何者なのか?
 ずばり、「サアルタ」→「先アルタイ」。「先に来たアルタイ人」であろう。「猿田彦神社」は、北方を拝んでいる。彼こそ、モンゴル奥からシベリア大陸を経て先駆けとして遠く歩いてやって来た「アルタイ族」のことだろう。逆に、もともとここにいたのは、アサマやフチを拝む「犬飼」さんたちであろう。架空の人物と言われることの多い「神武天皇」。もしこの人(達)が、皇紀と呼ばれる2600年以上前にアルタイ山脈からモンゴル平原、シベリア大陸を経て海を渡ってこの地にやって来たと考えたら面白いではないか。馬に乗った「神武天皇」がお舟に乗って安曇野に来てみたら、同族のサアルタがずっと先の今から10000年以上も前に、ここまで歩いて来ていた。これは驚きだろう。

 蟻ヶ崎は、有ヵ﨑→有ヵ先→アルカサ→アルサ→サアル→サアルタ→猿田→猿田彦。こう読むと後の話もすんなりいくのだ。

 それにしても「国常立尊」(大国主命)「諏訪大明神」(建御名方命)「半僧坊」「神武天皇」(????)まで祀ってあるとは、おどろいた所だ。

 先にも述べたように、ここは現在地デジの放送中継基地である。美ヶ原王ヶ頭の電波を受信して浅間温泉をはじめ山陰の集落に送信している。私は、古代人たちも同様に鏡を使って山頂や集落を結ぶ通信網を持っていたと確信している。それも、金属の鏡ではない。黒曜石を磨けばガラスの鏡が容易に出来るではないか。

 もしくは、アルカサ アリカサ アルッサ アルタサ アルタイサ 有ヶ先 先有る サアル サアルタイ

 いずれにせよ、「猿田彦神」は謎の多い神とされている。謎が多いほど重要な役割をはたしていると思う。




有明山神社 アリアケサンジンジャ 安曇野市有明



 主祀神:手力雄命(タジカラオ)八意思兼命(ヤココロウムイカネ)大己貴命(オオムナチ)天照大神(アマテラス)天鈿女命(アマノウズメ)事代主命(コトシロヌシ)
 別祀神:金比羅大権現

 神社は拝殿のみで、有明山山頂に、手力雄命(タジカラオ) 八意思兼命(ヤココロウムイカネ) 大己貴命(オオムナチ)
 南岳に、天照大神(アマテラス) 天鈿女命(アマノウズメ) 事代主命(コトシロヌシ)が祀られている。

 日本神話の天照大神の天岩戸隠れの役者が全てそろっており、岩戸伝説の舞台そのものでもある。
 岩戸隠れに出て来ない神は、大己貴命、事代主命。
 「大己貴命」(オオムナチ)は別名、「大物主命」(オオモノヌシ)で、さらに「大国主命」(オオクニヌシ)と同化(同人物)または化身とか様々な記述がされている。
 大己貴命も大国主神も「岩戸隠れ伝説」よりも後の世の神である。
 大己貴命をオホムナチとよむと「シベリアの乳房」となる。
 大物主命をオホモチヌシと読むとシベリアのモチ族となるが、きっと重大な事になるので宿題にしよう。
 事代主命は大国主命とカムヤタテヒメとの子とされている記述もある。これも後期の宿題。 

 八意思兼命 八思兼尊 思兼尊 常八思兼尊 トコヤオモイカネタケ 常念岳の名称の起源と思われる。
 坂上田村麻呂が平安時代に東征のおり、この地で「八面大王」を成敗したという記述がある.
 八面大王もヤオモテと読むと、八思兼尊に通ずるようだが時代が少し違う。
 しかし、きっと八思兼尊の子孫か仲間で、この地での相当な勢力を持つ者たちだったのだろう。
 岩戸隠れ伝説では、八思兼尊はみんなのまとめ役になっている。いわばフィクサー役だろうか。
 あの常念岳の名にふさわしい気高くかしこくもしたたかで威厳ある人物であっったに違いない。

 天鈿女命 アマノウズメ=大宮能売命(オオミヤノヒメ) 
  鈿は分解すると「金田」となるではないか。
  安曇野にある大宮熱田神社(オオミヤアツタ)まだ参拝していないが、私の長屋の安曇野出身の班長さんの証言によれば
  「モミの木の巨木が御神木だった」という。
  大宮 オホミヤ。 熱田 アツタ アツ アツミ アズミ 安曇・阿曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海・出雲。
  「オホ」と「アッチ」の神社だろうか。モミの若芽の季節に参ろうではないか。

 有明→アルアケ アルタイ族が拓いた?それとも単純に金属が見つかった。
 アリアケ 有明海や有明湾から考えると、海族すなわち安曇族の山ともとれる。前述の深志・志布志・有明ともつながるのだ。

 有明山神社には「金比羅大権現」が、別神として境内に後付けされている。
 金比羅信仰も日本独特の仏教と融合した謎の多い宗教だ。
 しかし、金比羅をカネヒラ→カネ ピラと読めば、日本語とアイヌ語の合成で読めば「金属の崖」。
 すべてアイヌ語だとすると、カ ネ ピラ ka ne pira カ=鉄 ネ=樹木 ピラ=崖。
 やはり「鉄の樹木の崖地」となる。それこそ霊験あらたかな素晴らしいホットスポットではないか。




穂高神社 ホタカジンジャ

  昨年9月の段階では、観光で訪れただけなので述べることができない。後期へ、ごめんなさい。



伊和神社 イワジンジャ

伊和神社 主祀神不明
 単純に考えると岩神社となるが境内の岩は男根とその脇のの平たい石しかない。アイヌ語では、岩はイワ iwa である。
 むしろ天然記念物の大ケヤキがもの凄いのだ。太古を物語っている気がする。
 惣社という地名もどうも不可思議なのだ。
 他県の「伊和神社」の主祀神は、大物主命 大己貴命 大国主命
 これから見れば惣社だから大物主命の神社となるがそう単純でない気がする。
 伊邪那岐、伊耶那岐 伊弉冊 伊弉諾
 イザナギ イヤナギ サナギ ヤナギ?
 古事記:伊邪那岐
 日本書記:伊弉冊 イソウサツ 弉は、ゾウ ソウ ジョウ さかん と読む。
 冊は、サツだ
 伊弉冊 イソウサツ?
 伊邪那岐→伊柳?
 伊簗諾の簗は完全に「ヤナ」だ。簗は梁で梁場(ヤナバ)のヤナで、遡上する魚をとる場所ではないか。
 諾の読みは、オ セ ダクで、ナギとは読めないが、「若と言う」ととればニャク で、イヤナニャクとなってイヤナギでも、ま「イイヤな」だろうか。
 伊弉冊は、イの盛んな柵と解釈できる。
 
 伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥。
 イヤナミ 梁美と転ずると、簗が大きい。
 やはり、漁労場の大きく盛んな簗場ではないか。

 伊弉冉との表記もある。
 冉 ネン ゼン あや うい
 惣社 ソウザと対比してみると
 伊弉冊+ 伊弉冉
 イソウサツとイソウゼンの和=ソウザ=惣社?
 頭がおかしくなりそうだが、解ってもらえるだろうか。

 伊邪那岐、伊邪那美が伊弉冊、伊弉冉に転じて「惣社伊和神社」として隠されているのではないか。
 どちらにしても、「イ族」の大きな梁場であった事に間違いないだろう。かつては薄川と女鳥羽川の合流点だったはずだ。


須々木水神社 ススキガワジンジャ

 

 主祀神:建速素戔嗚尊 タテハヤスサノウノミコト 別祀神:天照大神 アマテラスオオミカミ

 薄川上流は美ヶ原であり最奥が扉峠。鉄平石という鉄分を多く含む石英閃緑岩が採れ、川砂からも砂鉄が豊富に採れる。

 タテハヤスサノウノミコト→タタハスズナル→タタッスズナル→タタラスズナル
 ススキガワ→錫梳→スズスク
 つまり砂鉄からたたら製鉄が行われていた所もしくは、海族の安曇族によって鉄の原材料が搬出された場所ではないか。
「お舟祭り」も行われるらしい。
 だから、その代表者が「スサノウノミコト」だったのではなかろうか。建速素戔嗚尊(タテハヤスサノウ)は、建速→焚林→焚林錫之王 タキハヤシスズノオウだったのではないだろうか。たたら製鉄には膨大な燃料を必要とする。
 焚き火の燃料は、もちろん油分の多い松である。松本平の松はかつて金属精錬のために人に的に植え替えられたものに違いないと考えられる。

 もしや「扉峠」は、トビラ タビラ タタビラ 多田羅平ではないかとも考えたが…前述通り後期への課題だ。

 「薄川」近辺には、金井 カナイ kanai、荒井 アライ arai とかどうも金属くさい集落名がある。 
 金井はそのものだが、荒井もアルイと読めば金属。 ただし、井の字がくせ者なのだ。単に井戸とはとれない。
 井とは伊、倭なのか…それともアイヌ、倭犬なのか。

 ここの天照大神(大神社)は、本殿に対し左90度北方を拝むように建てられている。大神 オオカミ オホカミ シベリアの神
 天照大神は、大陸のシベリアから伝わった太陽神ではないか.高句麗は太陽信仰であったという。
 しかしこれも本当だろうか?なぜ太陽神を北に向かって拝むのだろう?
 お日様は北半球では南にいるでは無いか。アマテラス amaterasu と本当に読むのだろうか?不整合だ。




林城 ハヤシジョウ

 「天文19年(1550年)に長棟の子小笠原長時武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した。」と一般的には記されている。
 しかし、さらに古い時代はどうだったのだろうと考えた。どうも、ここもかつて古墳だったとしか見えなかったからである。
 林 ハヤシ ハヤヒ シもヒも漢字で書くと比で、江戸っ子変換だと思う。
 建速素戔嗚尊、タテハヤヒスサノウノミコト→タケハヤシスサノウ スサノウの墓ではないかと。
 もっと掘ってみないと解らない。



 小笠原 オガサワラ→オガアサハラ→小河麻原→オコウアサハラ→小興朝原→オコウアサハラ
 林城の西側の谷筋に松本市大嵩﨑の集落があり、麻原姓が多い。
 麻はアサで、朝。 朝は、日の出る東を示す後述の弘法山古墳の東に位置する。
 だから、倭王「興」の墓の東が、その子孫「小笠原」の居城「林城」となって整合性がとれるように思える。
 大嵩﨑は、この「論文」の表紙の風景である。穂高連峰、常念山脈、有明山を真正面に一望する絶景の地だ。


※「大高崎」はオオタカサキではなく、オオツキ でした。発表後発覚!

 もっと大変な地名になってしまった。オホツキ ohotsuki 大月、大槻、大築、大築、大津寄…
 後期にまわします。


弘法山古墳 コウボウヤマコフン

 初めは古墓山 コボヤマかと考えた。しかし、興墓山、もしくは高墓山 コウボヤマなのでは無いか。
 倭の五王の一人「興」(コウ)もしくは興の直系一族の王の墓ではないか。
 興は、高句麗の高ととも考えられる。そう考えると高句麗は、現在のマレーシアのように大陸と列島をまたいだ国だった事になる。
 古代の長安(西安)を都とした漢の国(中国)から見ると、朝鮮半島の高句麗も日本列島も「東夷」すなわち遠い倭の国でしかないのだ。
 現在、古墳の形状や出土品の型式からのみ時代が判定されているが、形状・型式から時代を判定するのは重大な誤りである。
 また、棺桶や遺骨が無いという事実にも惹かれる。日本には「両墓制」と言って「埋め墓」と「参り墓」の二つを持つ習慣が今でもある。
 居住地の近くや寺に「参り墓」。山中に「埋め墓」。だから、弘法山古墳も「参り墓」なのかも知れない。
 「弘法山古墳」に関しては公的機関も、再考を始めるようだ。慎重かつ急いで欲しい。歴史が大きく塗り替えられる重要な所なはずだ。

 国家と言う概念が成り立ってきた黎明期に、初めは大陸・朝鮮半島・日本列島と海をまたいで輪のように連なった國(クニ)。
 それが倭であり大和(ダイワ)なのかも知れない。
 その重要な鍵を握るのがこの「弘法山古墳」をはじめ、フォッサマグナ周辺に散在する遺跡、神社仏閣ではなかろうか。
 朝鮮半島から「近道」で九州に渡ってきた人達ばかりに気をとられてはいけない。
 シベリアからも意外と容易に渡って来れらるのだから。しかもかなり以前から、そして今も。




千鹿頭神社 チカトウジンジャ

 祀神:建御名方神 (タケミナカタノカミ) 諏訪神社春の宮
 チカトウジンジャ→ツカトウジンジャ→塚頭神社 「古墳の頂上」の神社ではないか。
 建御名方神とは、倭の五王の一人「武」(ブ)で、本人または、同族か子孫の墳墓ではないだろうか。
 建御名方神は、最期諏訪湖畔に幽閉されたと神話にある。彼の神々の系図もそこで途切れているのだが…

 スワ→スパ spa=温泉

 シベリアの沿岸部、ウラジオストクの北方にスパッスクという所がある
 そこはやはり鉱泉の湧く所で、石灰等建築資材が豊富だ。諏訪湖よりもはるかに広大な湖がある。
 スパッスクとは、そのまま素直に読めば「温泉の場所」の意味である。
 だが、19世紀のヨーロッパからの入植者たちによって、今もスパッスコエ「救世主」という意味にされたままである。
 にもかかわらず、スパッスク=ダリニーとロシア語表記まであるのだ。
 ここの南に位置するウラジオストクからは、「隠岐の島産」の黒曜石で作られた2万年前の旧石器も出ているという。
 いったい、シベリアの歴史はどうしてしまったのだったのだろうか?ここでも、地名は書き換えられているようだ。
 なお、スパ 温泉 spa の語源は、ベルギーのSpaにあると記載されているが、私はこれを信じない。
 なぜなら、古代人にとって温泉の湧く所はすべてスパであり、ユだったからだ。固有地名など無かったのだ。
 動詞や形容詞こそ語源だと思う。スパッ!ワクワク~

 建 タケは「武」で、御名方 ミナカタは水方 スファ sufa。こう解釈すれば諏訪と整合性がとれるではないか。
 倭王「武」が建御名方神でスパッスクが故郷、もしくはその出身者の子孫だったかもしれない。
  



女鳥羽川 メトバガワ metobagawa

 三才山峠から浅間温泉を経て松本市内を通って田川に合流し、最終的には信濃川となって日本海に至る。
 浅間橋から新潟の河口までは297.7kmとの表示がある。
 江戸時代初めにはには、女堂田川 メドウダと呼ばれていたと言う記載ももある。
 松本市女鳥羽には「マトバ薬局」という店もある。
 マトバ 的場 松本市沢村には縄文時代から近世まで永く使われた射的場が発掘されていると言う。
 しかし私はやはりアイヌ語が原点だと思う。
 メドウダもマトバでも後の時代の置き換えられた地名であろう。
 マトワク mat wak と読むと、マト ワッカ mat wakka、アイヌ語で「母なる湧水」「女王の泉」となる。
 メト ワッカ met wakkaでも同じだ。こちらの方が整合的だと思う。

 北海道の稚内は、ワッカナイ wakka nai で、本来はヤム ワッカ ナイ yam wakka nai 冷たい水の沢を意味する。
 因みにドイツ語で水は、wassar ワッサ。ロシア語でウォッカと言えば…



松本 マツモト matsumoto

 これもアイヌ語が語源だと思う。
 JR中央線の「特急あずさ」の英語アナウンス
 『Azusa limited express bounds for Matsumoto』アズサリミッテッドエクスプレスバウンズフォーマツモト
 これが、ユーミンの曲「Moriokaモリオカというその響きがロシア語みたいだった」(緑の町に舞い降りて)に重なっただけなのだが。

 マツモト アイヌ語
  マトゥ オマ ト  mat oma to
  mat 女 oma いる  to 湖、沼 女のいる沼ではあまりにも下品に聞こえるから違約してみた。

    「女王の住む湖」

  女王とは何者か? 単に母なのか?

   他の例:松前 マツマエ マトマナイ mat oma nay 女 いる


桜ヶ丘古墳 サクラガオカコフン

  浅間温泉にある小規模な古墳だが、金銅制天冠(コンドウセイテンカン)という類い希な重要な物証が出土している。
  にもかかわらず、やはり古墳の耕造や出土品の様相などからのみ時代判定がなされ謎のまま放置されてきた。
  しかし、近年ようやく見直されようとしているようだ。

  桜ヶ丘 オオガオカ 王ヶ丘

  こここそが、実は弘法山古墳や千鹿頭神社よりもさにらの「女王」たちが埋葬された場所ではないかと…

  多くの古墳の時代が逆転するかも知れない。西日本で「邪馬台国」を探す必要も無くなるかも知れない。



 「どんな服を着てても後ろ指さされない土地に住めばいい」
   『武器よさらば』より ヘミングウェイ



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