2.威厳のあるのは様々な地名だけだった 

 この節の表題は、ヘミングウェイ作「武器よさらば」の主人公ヘンリーが、第一次世界大戦中のイタリア戦線で、オーストリア軍の攻勢から退却するとき、幹線道路の大渋滞を避け裏道の旧道に自分の率いるトラック輸送隊で入ったときのつぶやきである。
 別な言い方だと、井上ひさしは「地名とは支配者の烙印である」とも述べていたそうだ。


 《大前提》

 日本語は、原則「アルタイ諸語」に属するという。また、古代「高句麗語」が元になっているという仮説、その他、アイヌ語ツングース諸語、東南アジア諸国語、韓国語、漢語、西洋語など様々な影響をも受けていて、方言や呼び名の多彩性も存在することを大前提として松本周辺の地名等を考察してみた
。 
 注:「高句麗」と「高麗」とは違う時代の別の国である。アイヌ人は、自分たちだけをアイヌとは呼ばない。アイヌとは「人間」を意味する。右下図はアイヌ語の分布域(wikipediaより)
 また、最新のDNA鑑定によれば「東日本在来の多くの人々は、北海道のアイヌ人のDNAとほぼ一致する」と私の次男は高校で習っているという。

※加筆訂正 2014/08/07
  筆者の仮説では、日本語の起源は第一にアイヌ語であると認識。



 《小前提》



・コニャニャチワ=コンニチハ=今日は
  チャブダイ=ちょうだい=頂戴
 これをバカボン変換とする。

・縁起担ぎ=験担ぎ(ゲン=ギエン)
  チャンカー=カアチャン

  パイオツ=オッパイ
 これを「ハンタイノサンセイ変換」とする。

・カフェ=コーヒー=珈琲=coffee
  I love you.=アイラブユー=愛裸撫友
 これを「音感字変換」とする。

・不二夫=富士男=藤
 これを「単音漢字変換」とする。

・標準語 「ただ今ぁ」
 松本弁 「行って来ましたぁ」
 これを「省エネ変換」とする。
 ※ただ今(どうしたのか)、(どこへ)行って来たのかが省略されている。

・オハコンバンチハ 漫画「マカロニほうれん荘」 Dr.スランプ アラレちゃんの挨拶
 オタイマ~
 ※「オタイマ~」は、私の長男が幼児期に「ころりん村幼児園」(無認可保育園)から帰宅した時の常用語
   「ただ今~」+「お帰り~」
 これを「マカロニック合成変換」とする。(マカロニック


・狼 大神 オホカミ
  以前、ラジオの「こども電話相談室」で有名だった、あの無着成恭師のある講演の席で、
  「狼はオホカミで、大神であって、オオカミとは書かなかった」と、私は聞いたことがある。
  この論文にとって根幹をなす非常に重要な読み方なのだ。
  「大」をオホと読む事を「無茶苦変換」または、「モスモス変換」とする。

・東 シガシ お彼岸 オシガン ヒとシの発音が出来ない。
  これを「江戸っ子変換」とする。※実は、比はヒとももシとも読む。これもとても重要なのだ。

以上のような、古来からの日本語の様々な変換や省略方法と自分の病的直感力や奇抜な発想から、松本近辺の地名、山名 、社寺史跡名等を自由自在に解析したり読み替えてみた。



 「天才バカボン」赤塚不二夫作(竹書房文庫)
より


浅間温泉 の浅間 アサマ asama

 アサマ asa mat と音標すると、
 アイヌ語で、火山を表す。東南アジア諸国語でも、アサ asa は煙・蒸気。マ matは母を意味する。
 すなわち「煙の出る母体」すなわち火山。マ matは、アイヌ語でも母を意味する。

 浅間温泉には、現在7つの源泉がある。一番浅いものは「東北源泉」で地下3.6mである。
 既に枯渇している「松の湯源泉」はさらに浅く、地下0.4mであった。
 江戸時代には地表から湯煙を出していて文字通りアサマであったはずだ。
 現在でも温泉街の側溝からは毎朝湯煙が上がっている。

 私が毎日のように入浴している共同浴場「仙気の湯」(センキノユ)の源泉は 第二号、四号、大下、東北源泉の4種ブレンドで、その日によって湯温は気まぐれではあるが、流湯口では49.7℃、ph8,7と長野県の検査に記載されている。
 アルカリ単純泉と言われるお肌ツルツルのいわゆる「美人の湯」である。後述の「古美ヶ原火山」の麓にある。


 長野県と群馬県にまたがる活火山「浅間山」(アサマヤマ)も、世界遺産「富士山」の浅間神社(センゲンジンンジャ)もアサマ。
 阿蘇山も、アソだからアサに通じるはずだ。浅間温泉は、「古美ヶ原火山」の麓である。
 因みに、アイヌ語では、お婆さんをフチと呼ぶ。煙を出さずに休んでいる火山もフチとも言うようだ。
 すなわちフチが不二となってさらに富士になったのだのだろう。意不二という表記もあるが、それは後述する。
 木曽御嶽山が1979年10月28日に突然水蒸気爆発を起こして以来、学術的には「死火山」「休火山」という用語は廃止された。私はその時ちょうど、信州大学のキャンパス内の芝生の上で、自分の黒い上着が白くなったのをハッキリと覚えている。

 日本には富士の名を冠する「ご当地富士」と呼ばれる「休火山」が山ほどあるが、古代人にとって個々の山名などは無く、それら全てがフチで「二つと無い」という意味など元は無かったのだ。
 だから、アサマもフチもみんな火山なのだ。それらがもう二度と噴火しないという保証はどこにも無いのだ。

  アサマ asa mat 火山


美ヶ原 ウツクシガハラ utsukushigahara 『日本百名山』 山頂は「王ヵ頭」(オオガトウ) 2,034m



 ウトゥルクシカピラ u turu kushi ka pira アイヌ語で「私達が通り超える鉄の崖地」
 意味:ウ=我々 トゥル=通る クシ=越す カ=鉄 ピラ=崖地。
 こう記述するとまったく味も素っ気もない事になるが、過去も現在も人間にとって常に重要な場所なのだ。
 美ヶ原は、長野県のほぼ中央に位置し、フォッサマグナ西縁近くに100万年から80万年ほど前に活動していた火山の残骸と表現しては失礼であろうか。
 鉄平石と呼ばれる平たい溶岩はいわゆる安山岩で、主に花崗閃緑岩に類し、多量の鉄分を含む。
  ※(学術的ではありませんのでご容赦を;詳細はここ
 山頂や周辺からは、県内の広域ばかりか富士山までも見通すことが出来る。
 そのため、無数の電波塔や中部電力マイクロ波反射板が設置され、通信・放送に欠かせない基地となっている。
 江戸時代までは修験道の聖地でもあり、遠く御嶽山を拝むことが出来、現在でも「御嶽教」の神社が祀られている。
 山麓周辺には、浅間温泉・美ヶ原温泉・扉温泉・鹿教湯温泉。別所温泉等無数の温泉が湧き出ている。

 「美しい」と言う文字は漢語で「羊が大きい」の意だ。しかしそれには、その偉大さと限りない豊かさが込められている気がする。
 ウトゥルクシカピラをいつの時代か「美ヶ原」という漢字に置き換えた人間には、まったく敬意を表したいばかりである。




有明山 アリアヤマ ariakeyama 2,268m
  
  

 「有明富士」、「信濃富士」、「安曇富士」とも呼ばれる富士山のような台形をしたひときわ黒く見える山である。
 主に花崗岩(いわゆる御影石)からなり、多量の鉄分を含む。
 山麓には「有明山神社」(アリアケサンジンジャ)がある。詳細は次章で後述。
 この奥、「燕岳」(ツバクロダケ)登山口の「中房温泉」(ナカブサオンセン)は93℃という高温源泉である。
 松本、安曇野には有賀、有川、宇留賀等アルやウルの付く姓がある。
 アルとはアルタイ語で金属を表すそうだが元はラテン語だろうか。
 金は元素記号Auでaurum。銀はAgでargentum。アルミニウムはAlでalumimiumから来ている。
 アルカリ金属という生物に必修の元素もアルくらいだ。
 有明山とは「アルが明けた」金属が見つかった山ではなかろうか。実際中房温泉はミョウバンが湧き出る鉱山でもあった。
 それとも後述の安曇族の由来とも関係する九州西部の有明海や宮崎県日向の有明湾(志布志湾)とも関係するのだろうか。


常念岳 ジョウネンダケ johnendake 2,857m 『日本百名山


 
 松本、安曇野のランドマークと言ってもよい北アルプスを代表する名山で、私の最も愛する山でもある。
 常念岳は独立の単峰ではなく、かつてアルピニストから「前銀座」とも呼ばれる北アルプス常念山脈の一部分である。
 やはり、主に花崗岩から成り立ち、「烏川」(カラスガワ)が「国営アルプスあずみの公園」を経て安曇野から「犀川」(サイガワ)へとそそぐ。。
 烏川からはかつて砂鉄等が取れたようだ。
 だがかつて私の学生時代、常念岳への登頂は槍ヶ岳よりも大変だった。
 沢と森林が非常に深く、2000mを越す尾根まで急登が延々と続く。現在は、中腹まで林道が出来て初心者でも登れるようになった。
 その深い沢、烏川 カラスガワは、カナ+スズ=カナス転じてカラスとなった合成語で、有明同様金属を表したのではなかろうか。
 因みに現在、唐金とは青銅器等の合金を表す。
 梓川を挟んだ山形村には唐沢という沢もあり集落名も唐沢で唐澤姓の蕎麦屋が多い。
 常念岳には毎年5月頃、山肌に「常念坊」と呼ばれるトックリを手にした僧形の雪型が現れる。
 常念岳の山名の由来とも書かれているが、それは後世のことであって、私は違うと思った。
 詳細は次章で述べるが、常念山脈の北部、有明山の「有明山神社」の祀神から察するに、「常八思兼尊」 トコヤウムイカネタケが転じて常念岳と呼ばれるようになったと考えられる。
 常念山脈に現れる雪型を見て、安曇野の人々は田植えをはじめ農耕の指針としていた。
 安曇野産の野菜はとても甘く味が濃い。わさびも有名だ。そのままかじるとわさびは甘い。
 ご近所からよく頂く野菜は安曇野産で有機農法で作られているという。
 だが有機農法だけでは、この味は出ない。無機物の金属(ミネラル)が豊富だからこその甘さと旨味であろう。
 「八意思兼尊」は、多くの願い事をかなえる神とも受け取れる。
 御影石の石材や農産物はおろか、かつてはそれど莫大な金属が取れたに違いない。




安曇野 アズミノ azumino

 平成の市町村大合併によって、松本市と安曇野市にことごとく吸収されてしまって、穂高町や豊科町だった安曇野市は、軽井沢化しつつある気がする。
 元は安曇郡という北アルプス山地を含む広大な地域であった。上河内も北南安曇群安曇村であった。
 最後の氷河期以降この地は広大な湖沼地帯となり、後に「安曇族」(アズミゾク)という舟を操るいわゆる海人族(アマゾク)と呼ばれる航海術を持った人達が行き交っていたという。

 よく、『昔安曇野はは「海」だった』という人がいるが、それは鯨の化石が出た四賀村(現松本市四賀)の事で、今から2000万年~1500万年前の人類の登場前の話しで時代が全く違う。
 ここで言うのは「湖」(ミズウミ)であり、今から6000年~5000年程前からの事で人間が住んでいた時代の事である。
 しつこいようだが「海」では無く「湖」の話である。ここのゼロ4桁の万の数字を絶対に勘違いしないでいただきたい。

 アズミ azumi アツミ 渥美 熱海 温海 アチウミ 阿知海 越海 エツミ エツ オツ オチ
 中国大陸の現在福建省から広東省沿岸部に紀元前600年~期限300年頃までという国があった。
 台湾に正対する海に面し、元々海運に長けていたらしい。
 石材土木建築にも長け、稲作や青銅器文化を持っていたが、「四面楚歌」の楚の国に滅ぼされた。
 いわゆる中国の春秋戦国時代の国の一つである。まだ、中国が統一されていない時代である。
 一般には、越の滅亡(紀元前334年)によって、
 「ヤマト」をたよりに九州に渡った越人(海人族)が安曇野に来たとの説明が多い。
 しかし、私はそれよりも遙か以前の国家などと言う概念の無い時代から、人や物資を載せて海を渡る亀のような役割を果たしていた重要な人達だったと考える。
 ベトナムも漢字では「越南」でベトナム人は日本人によく似ている。メコン川を行き交う舟は海人族そのもののようだ。
 北陸の「越前」・「越中」・「越後」もまた海に面している。上越市もある。
 余談だが「大岡越前守」も先祖がシベリアから来たのでは、と考えてしまうのは思い込みだろうか。大岡(オホコウ)…

 安曇族は、高句麗人(アルタイ族、タタール人+α)を大陸から渡したと考えられる。
 鉄を始めヒスイや幾多の産物の運搬交易をした。建築土木にも長けていたと考えられる。

 だが、「あずま野」と解釈すると東の土地となり、今の関東から見ると西で、そことなく不自然なようだ。
 しかし、シベリア大陸から見れば、安曇野は今も東(アズマ)の平原そのものなのだ。
 どちらともとれるのだ。逆に「あずま」という言葉の語源かも知れない。


 ヤマト yamato 安曇野市

 とにかくこの交差点名を見たときには、仰天した。卑弥呼の邪馬台国でもあるのかと思ったくらいなのだ。
 「倭」 yamato 現在日本語では、ワ wa。 漢語だと、イ i 東夷の夷(イ)でもあるという。
 アイヌ語ではyamは、冷たい、寒いを表す。
 倭は、イと委の合成との見解もある。
 謎めいているが、誠に威厳のある地名である。
 重要な課題だ。



北海渡 キタカイド kitakaido 安曇野市 

 
 この地名は、安曇族が南からだけではなく、まさしく北方の人々も渡していたのではないかという事を物語っているような気がする。
 ここには、後述の不思議な「諏訪神社」がある。次章で述べる。











上高地 神降地 上河内 カミコウチ kamikohchi kamikouchi
  
 「大正池」や「河童橋」であまりにも有名な観光地であるが、北アルプス登山の入り口である。
 焼岳活火山もあり、後述の穂高神社の奥宮がある。
  
 「上高地」と記すると近世の観光地名と思われるが、上高句麗地もしくは上興地ともとれる。
 「上河内」と記しても単に梓川の上流を指すとは思えない。
 倭の五王の「興」もしくは「高句麗人の土地」ともとれるが深読みだろうか。
 アイヌ語で解釈するのが最も単純である。
 神降地 kamuipri カムイプリ 神々の山。
 「カミフリチ」これは、大和朝廷が東日本の支配に利用したではなかろうか?
 いずれにしても「地名とは支配者の烙印である」の代表だと思う。


穂高岳 ホタカダケ hotaka hodaka


 奥穂高岳、北穂高岳、西穂高岳、前穂高岳、明神岳などからなる連峰で、元々は個々の山名は無く、すべてがホタカであった。
 「穂先のように見える」から穂高と呼ばれると言う解説が多いが、後付けだろう。
 ホタカをオホタカと読み替えると別物になる。
 「シベリアの高い山」になるのだ。
 この事は、後述の松本市大嵩﨑(オオタカサキ)からの眺望で気がついた。
 穂高 オホ タカ oho taka シベリアの高い山。
 しつこく繰り返すが、オホーツク海とは、オホ トゥク oho toku 「シベリアの所の海」である。
 かつて海を渡って来た人達が故郷シベリアの山を懐かしく想って呼んだ名だと思う。
 人間は移住すると、故郷の地名を懐かしみ付ける習慣がある。
  ヨーク→ニューヨーク、ジャージー→ニュージャージー、十津川村→新十津川町、京都→東京


松本市大村 オオムラ ohmura

 オホムラ oho mura オホ・オボは、ツングース語でロシア語のシベリアを表す。オホーツク海のオホに同じでやはり大きいを意味する。ツクは、スク・トク・トゥク・トカでもあり場所を現す床・常・所。例:ウラジオストク、ハバロフスク、ナホトカ
 オボムラ 「シベリアから来た人達の村」ではないか。しかしそれほど大きい村ではないように見えた。

 大村の「馳走しぶき」は、隠れた名店である。先代は浅間温泉「玉ノ湯」の元板長。
 お隣の元芸妓「まゆみ」さんによれば、気に入らないと打った蕎麦でも切った刺身でも目の前で捨てたという。
 二代目は、東京八王子高尾の「うかい竹亭」で修行を積んだ若大将。蕎麦も料理も日々進化している。カウンターに座ると彼の手品のような馳走さばきが見られる。松本よりも高尾の方が寒かったと語る。同感である。


松本市横田
 ヨコタ yokota

 日本中どこにでもある地名だが、陽光田(ヨウコウタ) 陽向(ヨウコウ) 日向(ヒュウガ) ともとれる。
 日向田ととると、日向灘を根拠地としたとも言われる、海を渡る海人族すなわち「安曇族の田」。
 横田をオコタととると、興田 倭の五王「興」の田ともとれる。
 ここには「横田神社」(ヨコタジンジャ)があるが後述。
 秋の彼岸中日に旧横田街道沿いの江戸時代の「火薬商人」の館の門前で拾った「書」を私は大切に飾っている。




松本市惣社 ソウザ souza sohza
 
 ごく普通にとると、「惣村」で自治農村にとれる。多種族の惣領の集まる所などと「総座」との説もあるが謎の多い地名である。
 総座説から信濃國の国府探しの発掘が松本のあちこちで行われたようだが、未だ発見されていない。
 結論から言えば、大和朝廷成立以来、この松本平に西からの支配者夫の国府を置くことが不可能だったくらい自治が発達していたのではないだろうか。
 確かに信州人は自治意識が現在も非常に高いと思う。現に松本は、足利幕府お墨付きの「守護大名」が日本で初めて追放された「下克上発祥の地」とも言われている。「林城」を参照のこと。
 惣社には「伊和神社」(イワジンジャ)があるが詳細は後述する。


松本市山辺 ヤマベ yamabe (里山辺と入山辺に分かれる)

 
「山辺」もどこにでもあるありふれた地名だが、元はアイヌ語だろう。
 ヤンベツ ヤムペツ yam bet  yam pet アイヌ語:冷たい川。後述の「扉峠」を源流とする「薄川」の中流である。
 ここで産する葡萄「デラウェア」は、日本一と言われるほど甘く美味である。
 近年農家の協力によって創設した「山辺ワイナリー」は、後発にも関わらず数々の世界的賞をを受賞している。
 しかし、ジュースのように甘いと私の家族は評している。
 野菜も安曇野産に負けず劣らず甘く美味しい。鉄分の多い土壌・水質・寒暖の差が大きいためかも知れない
 写真は「旧山辺学校



松本市大嵩埼 オオタカサキ ohotakasaki ※訂正 オオツキ ohotsuki 2014/5/5 m__m

 松本人ですら「そこはどこズラ?」というくらいの小さな集落だ。 
 オホタカサキ オボタカサキ オボタカサ オホダカサ 穂高先 穂高の左手
 ここは、非常に威厳のある重要な地名だ。次章で詳細に記述する。



松本市筑摩 ツカマ tsukama

  塚間 「古墳の間」ではないか。実際古墳群の間である。そう考えたのはつかの間だった。
  チクマ ととると チクシ マ chi kushi mat アイヌ語で、岩の間の女? 「母なる岩間」ではどうだろう。
  佐久地方から流れる千曲川もチクマで、「母なる岩間を流れる川」なら、島崎
藤村も納得してくれるだろうか?
  明治維新直後は松本は筑摩縣であった。現在も東筑摩郡に五ヵ村が残っている。
  塚間とチクマをうまく合わせた合成なのではないだろうか。

  筑摩のら「あめん寸八」は、有名だが私にはこってりだった。


松本市旭 アサヒ asahi

 女鳥羽川中流の右岸に当たり、現信州大学のメインキャンパス、元陸軍松本五十連隊の土地である
 単純に松本が最終氷河期以降、湖沼であったことから想像するとアサヒ 浅比 アサイ で「浅い」だろう。
 女鳥羽川の氾濫原の浅い所を埋め立てた場所ではないだろうか。大村と横田の対岸である。
 旧跡の少ないところだ。
 「旭町」とは日本陸軍にピッタリの威厳がありそうで、崩れ去った地名かも知れない見事な変換だろう。
 信州大学にとっては、「浅い」とは誠に不名誉な事である。標高620mは日本一レベルが高い大学なのだから。
 江戸時代は、下級武士や土俗豪農との接点、北深志、沢村や桐と隣接する。


松本市美須々 ミスズ

 女鳥羽川中流の右岸。美鈴 美錫ととれば 「莫大な金属」という意味だと思う。
 まさに信濃の枕詞「みすずかる」にふさわしい気高い地名だが…
 この近くの「長野縣護國神社」の裏に重大な落とし穴があったのに気づいたのは執筆中のことだった。
 後期の宿題だ。

  「天才バカボン」では魔法の言葉なのだ 『ビビデバビデミスズ』

護国神社


松本市深志 フカシ fukashi

 シムシ shi mushi と読み替えると別物になる。
 アイヌ語であろう。シ=大きい ムシ=湾  すなわち 「大きな湾」だ。 
 縄文時代、松本盆地は広大な湖で、さらに江戸時代以前の松本城(深志城)建立以前までは湿地帯あったという。

 下の地図は「国土地理院」地形図を元に、現在の標高からかつての深志(シムシ)湾をおおざっぱに描いてみた。
「シムシ」の所は、江戸時代以前は沼や湿地帯。縄文時代の今より温暖なころは、完全に湖の底だったはずだ。
「アサイ」の所は、湖岸の浅い場所だろう。
「アサマ」の所の標高640mが、むかし温暖化が最大だった「縄文海進」(約5000年前)ころの湖岸線ではなかろうか。
 それぞれ、神社仏閣の位置をたどってみるとおもしろい。地名とも重ねてみると、時の支配者も浮かび出てきそうだ。
 
 湖面の標高が約600mの「広大な湖」があった。まさにその証拠となる大切な地名だろう。
 武士の「深い志」を一刀両断にしてしまい、いたく申し訳ない。我が最愛の松本藩にいかにわびをいれるべきか…



 なお、鹿児島県薩摩には志布志湾(シブシワン)があり、宮崎県日向側からは同じ海を有明湾(アリアケワン)と呼ぶ。
 非常に興味深いことだ。


松本市蟻ヶ崎 アリガサキ arigasaki

 市営アルプス公園から城山公園(ジョウヤマコウエン)を含む丘陵地でフォッサマグナの断層崖(ダンソウガイ)の丘陵地である。
 丘陵の中腹には手塚治虫の漫画「火の鳥」で有名な猿田彦の「猿田彦神社」(サルタヒコジンジャ)がある。
 しかしそこは拝殿で、本宮は山頂の犬飼山の「犬飼神社」境内に祀られている。
 かつては「有明ヵ﨑」だったのではないか。
 次章の「猿田彦神社」で述べよう。とても謎多い重要な場所なのだ。

 「犬飼山」(城山)はテレビ放送局の送信所でもある。
 松本市は、地デジ以前からテレビはUHF(極超短波)で送信されていた。波長の短いUHF放送は、山陰には届かない。
 美ヶ原山頂からの送信では、とうていカバーできない地域がある。浅間温泉もその一つだ。
 すなわち蟻ヶ崎の城山は、規模こそ小さいものの通信の上で重要な中継所なのだ。
 詳細は次章で述べよう。




松本市大手 オオテ oote ohote

  これをオホテとかオボテと呼んだら、きっと馬鹿にされると思う。
  あくまでお城の「大手」これででいいのだ。



松本市丸の内 マルノウチ marunouchi

 上記に同じ。マルノウチ以外の読み方は常規を逸する事になるだろうか。
 ときたま利用する「松本丸の内ホテル」は丸の外にあると思っていた。
 だが、「松本市大名町」は、江戸時代「三の丸」であったからやはりこれでいいのだ。




三才山 ミサヤマ misayama

 
 前述の「美須々」交差点の上流、女鳥羽川の源流である。
 ミスゞ山、ミスズ山、美須々山、もしくは美錫山だったのではないか?
 諏訪にも御射山(ミサヤマ)がある。
 やはり、「美錫」と書くと莫大な金属となる。
 御射神社の秋宮は上流にあり、「本宮」は「秋宮」よりもさらに三才山峠に近い山奧にあるらしい。
 まだ、詣でてないのでこれも宿題だ。

 三才山トンネルは、私が学生時代に開通した。これによって上田佐久方面への交通は非常に楽になった。
 開通当初、みすぼらしい信州大学の学生とわかると、バイクの通行料金を無料にしてもらえる事がままあった。











扉峠 トビラトウゲ tobiratouge

 トビラ タビラ タタビラ タタラピラ?いろいろ読み替えられる。

 ト ピラ to piraとアイヌ語読みすると、
 「沼の崖」「湖の崖」となるが、目の前に立ちはだかる断崖のような大きな宿題だ。









信濃 シナノ shinano

 シンノ シンヌ シンコク チヌ チノ 茅野 などと様々に読み替えが出来る。
 金属を年頭に考えると、辰濃。シンノに行き着く。
 辰とは、辰砂 (シンシャ) 水銀の取れる鉱物で、 (タン) 硫化水銀である。
 「しなの」とは 辰砂が濃い、水銀が多い地の読み替えではなかろうか。
 かつての国鉄中央東線に「辰野」(タツノ)という駅があった。現在JR辰野線。
 辰野も読み替えるとシンノになる。鋠濃…
 信州ゆかりの武将「仁科氏」とからめると、あの「仁丹」になる。

 もう一つ、「茅野」(チノ)。諏訪湖畔の「諏訪神社」『上社本宮』のある街だ。
 茅(カヤ)、葦(ヨシ・アシ)、薄(ススキ)、笹(ササ)、篠(シノ)。みんな、湿地帯や赤土を好む「シナ」に関係してくる。しかもその根元からは、褐鉄鉱(カッテッコウ=鉄さび)がとれる。やはり、金属に行き着いてしまう。
 だが、諏訪大社へはしばらく詣でてないから、これも後期の湖のような広大な宿題だ。



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